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やけくそにっき




by 松山"やけくそ君"のぶゆき
(当サイト管理人、
非情人情研究家)

2006年12月の日記

与えよ されば 求められん 275 行間を読んでいたの巻
 狭い行間、そして改行、句読点の少ない文章は、元の文章が本来伝えるべき感情以上のマイナス思考を増幅して読み手に訴えてしまう可能性が高い。いや、こんなことは、前から「頭では」わかっていた事なのだが、実際某フリーウェアを用いてなんとなく、webにおける行間を広げるフォント設定をブラウザに施したところ、前よりは、不愉快に思うことがぐんと少なくなった。アスキーアートは崩壊しますが・・・俺、アレ嫌いなんよね。


 ファンシーなブログの多くがやったらめったら改行が多いのにも、やっと、納得がいった。読み手の余分な感情を誘発しないように、無意識に選び取っているわけである(そのことの良し悪しはともかく)。そして、英語圏のページがやたらすっきり思えるのは、そのせいだったのだ。


 ・・・いや、まあ、気付くの遅いんです。


 書き手の計算どおりの感情しか誘発しない安全な文章、が、果たして良いものなのかどうか、という、ビミョーなあたり(中間点)こそが面白いかもしれません。ぬる過ぎる無難を選ぶか、もしくは極論を選ぶか、というような、二極論への誘導は、ほんま嫌いです。ぼくは。devoのfreedom of choiceの歌詞を煎じて飲ませたくなることが多い一年でした。実生活でも、仮想空間でも。
 

 来年も思いっきりマイペースに行きます。


 このかっとび気味の駄文への感想を送ってくれた方には、ありがとう。


 ほなまた来年。
2006年12月31日(日)   No.531 (雑感)

与えよ されば 求められん 274 凍傷の彼方への巻
 読書という行為には実に不思議なものがある。


 これは私に限った話なのかどうか、知人に尋ねないと解らないが、たとえば読みたい本を購入しても気持ちにバシッと入らないと、まったく頭に入ってこないのですな。思考のエンジンがかからない。こういった現象は音楽ではまずなく、どんな嫌いなタイプの音であっても、とりあえずは私の聴覚は大変鋭敏なようで、何らかの感想を持たざるを得なくなる。それだけ音の力は強大なのだ、と言いそうになるが、逆に言うと、ちょっと、間口が広すぎるのかもしれない。


 今年は多い目に日記を書こうジャナイカ、と思ったのは、独白と会話の差異を探りたかったのかもしれない。例えば、好きな音楽を聴いているときその歌詞が極めて個人的な内省的な独白に満ちていても、まるでフランクに誰かと会話しているかのような感じに「伝わって」しまう、という、そのギャップや異化効果こそが、ほんとうはコミュニケーションであり、面白いんですが、ねぇ。そういうのは、日本語では、音楽よりも日記の方が簡単にできるのが、不思議である。


 おんがくの日本語に関しては圧倒的に独白文化であり、「君は何々していますか?」「俺はあなたが〜だ」などという、ですます調のダイレクトな語りかけの歌詞はフォークやGS以来もっとも恥ずかしいものとして巧みに忌避されている。


 別にI LOVE YOUじゃなくても、直接語りかける話法そのものが、というあたりが面白い。だから、独白に向かうんだろうか。でも、ぼちぼち、あなた、と皆が言い始めてもいい頃じゃないか?とそんな根拠のないことを考えたりもする。


 わたくしめ個人の話をすると、ライブでは


「おい!わやりゃうぁぶわ〜!」


 とか判別不明のことをわめいていただけな気がする。


 ・・・だめぢゃん。


 来年はもうちょっとちゃんと切り込みたいな。切り込みジャック。凍傷の彼方へ。


 ところで、マーク・パンサーは元気かな?
2006年12月30日(土)   No.530 (雑感)

与えよ されば 求められん 273 Don't Think Twice , It's All Right
 普段は芸能ゴシップネタなどで意味不明の熱弁をふるっている、やしきたかじんという昔は貧乏で京都でゴミをあさったりしていた苦労人のタレントが、「人間は年を重ねると成熟するというのはまったくのデタラメである」と、ニコチンとアルコールで虚脱しきった顔面でTVで語っていて、ホントそうだよな、と、思う。涙もろくなったり、芯が固くなったり、そういうのはあるかもしれないけれども。内側ではまったくもってぷにぷにの子供が生きている。


 ただ、時折、そのことを言葉にして、心から恥じらいながら舌を出して見せる余裕こそが大人なのかもしれない。


 実際、子供の頃は、餓鬼扱いされると無性に腹が立ったものだ。


 だから、子供や思春期というのは「はっきりとした輪郭を持っていた」季節だというのは実は間違っているのかもしれない。自分の本質を認めないことに心血を注ぐのだから。そんな季節だ、といえる人はきっと、そこを完璧に卒業した大層ご立派な人か、無くした卒業証書をあとから取り戻そうとしているだけなのかもしんない。


 大人というのは子供の無軌道な行動を抑止するための仮想装置なんだろうな。だから、多くの子供たちが大人になってから、オモテで演じている仮面とは別に、実際にはそれほど自分の内面が大人になっていないことに不安を感じて、反動で、もっと別のでっかいものを求めたりしてしまうのだと思う。

 
 一番恐ろしいのは、この迷いさえなくなっている大人が増えることじゃなかろうか。と。そんなことを思う年の瀬であります。
2006年12月29日(金)   No.529 (雑感)

与えよ されば 求められん 272 ニシンが鉢の巻
 久しぶりにひと踊りしてきた。もちろんJames Brownもかかったさ。それがすべてじゃないかニャ〜?いや〜最高でした。靴下に穴があいた。


 もっとみんな寂しく、切なくなればいいと思う。


 なにかが動かないのはまだまだ言語上に留まっていて、肉体の孤独が実感できていないからかもしんない。


 少なくとも、多くの人々が間違っているのは皆で踊ること=共有感覚の共有だと思っていることだ。それは同じ振り付けでロボットのように踊っている人、それを端っこで見つめているひとも含めて、よくある誤解ではある。


 それは大きな間違いで、むしろ孤独を発酵(発光)させる場なのだと思う。その装置を大切に人々は育ててきたわけである。


 盛り上がれば盛り上がるほど、帰り道は激烈に寂しい。いや、踊っている最中も実はそうであり。でも、いつのまにか、寂しさに不可解な強さが加わっているのである。


 ダンスミュージックを、否定的な意味で「何か寂しい感じがする」と突き放すように言った人は、ある種正解だと、いつも思う。本質を突いてるわな。単にすねているだけなのかもしれませんが。


 そして優秀な作り手はそのことを十分にわかって、あえてやっているのである。


 俺がはじめてパーラメントの「マザーシップコネクション」を聞いたとき、


 もっと賑やかでギトギトしていると思っていたのに、不思議と沈んだ雰囲気なのにびっくりした思い出がある。


 だから、ファンカデリックの「ワン・ネーション・アンダー・ア・グルーブ」あたりに行って、オモシロにぎやかでいいなあ、と大層盛り上がるわけだが、そのあとなぜか徐々にスモーキーな「マザーシップ」がぐっと効いてくる。


 しこたま飲んだあとにカレーうどんを選択するか、にしんそばを選択するかの違いである。


 全国のコギャル(死語)諸君には機会があれば、ぜひとも両方味わってもらいたいものであります。


James Brownのニシンそばは、やっぱこれっしょ。


James Brown - The Payback


 かなりキモカワなアルバムですが、それはしょうがない。


 ニシンが、そばの上に乗っているのだから。


 ・・・しかも麺が延びているという(笑)
2006年12月27日(水)   No.528 (雑感)

与えよ されば 求められん 271 ネヴァーマインド・バブルボムズの巻
 四条の方は怒涛の不思議ちゃんカップルで溢れかえってたそうで、行かなくてよかったと思う反面、中にはすごい面白いキャラが観察できたかも知れず、残念と思う気持ちと半々。


 先日東京に行って、たっぷり人間観察をしてきて思ったことは、京都も東京も大阪もみんな似てきてるってこと。こういう感想を持つのは、俺が高校生や中学生のころにあっちで遊んでいた記憶(<夜遊びに非ず)をはっきり脳裏に焼き付けているからかも知れぬ。


 もちろん、都市の「底」のほうに沈殿しているものはどこでも独自性のある、面白いものがヘドラのように存在するわけだが、「表層」にフォーカスを絞れば、間違いなくそうだ。均質化が進んでる。だから、東京はハイプで、大阪はディープ、京都がドープなんてのは、全体数で見れば、全然違うと思うんだな。地元の人でそう思っている人がいるなら、思い上がりにもほどがあると思う。


 京都でさえ、品性のかけらもない市内の車の交通量や夜間照明や町屋の保存について議論が始まったのはつい最近のこと。例によって、外国から来た要人に指摘されてやっと重い腰をあげたとか、そんな感じなんじゃないか。こっちは俺が6歳の頃に市電が走っていた頃の超のんびりしてた頃の記憶があるもんだから、「はんなり」とか言われても「うっそでぇ〜」と思ってしまうのだ。まあ、他の町よりは風情があるのかもしれませんけどね。今なら、奈良とかの方がずっと「古都」の名にふさわしい場所が残っていますよ。いや、ホント。


 バブル経済は崩壊したかもしれないけど、人間の中のバブルはいまだに泡立っている。きっと来年もライブドア事件みたいな、そういうまぬけな事件が起こるんじゃないかなあ。


 景気が良くなったなんていう、風説の流布を政府自らが行っているわけだしね。
2006年12月26日(火)   No.527 (雑感)

与えよ されば 求められん 270 ドグラっ子、マグラッ子の巻
 デフ・ジャム期待の新人(笑)。レディ・ソヴリン(Lady Sovereign)。いや、でも結構いいんです、これが。


 豊年斎梅坊主を神と崇める早口言葉好きにはたまらんものがある。


 やっぱ最近のUKは侮れん。


 っていうか、バックトラックが、かっこいい。
 

 生バンドといっしょにやってるライブをネットで見たら、ベースの人が一個しか音がないようなめっちゃ退屈なループをめっさ真剣に弾いていて、感動しました。これだぜ。


 そう、なんつうか、どっか突き抜けた真面目さがあるのである。本人のフロウも含め。
 

 それでいて、どっかヘン。
 

 ルーズネスを無理に出すよりは、こういうのが自然でいい。


 いつか、上原ひろみ(怪女)と競演すべきである。
2006年12月25日(月)   No.526 (雑感)

与えよ されば 求められん 269 ゴミと宝の巻
 昔よくクラブに踊りに行ってたときに、そういう音楽に馴染みのない人の反応を見るのが好きだった。


 そういう人はああいう音楽が全部おんなじに聞こえる、と言っていたものである。こういう話はよくあって、ブルースもそうだし、ロックンロールもそうだし、ユーミンやバッハもそうかもしれない。即興演奏もそうかも。


 そんな味気ない感想は放って置けばよい。・・・たしかにそうかもしれないが、ある種本質を突いている部分もある、というのが俺には面白く感じられたのである。


 ダンスミュージックと即興演奏はその中身こそ大きく異なるが、曲と曲の境目を破壊し、匿名性を獲得する方向に自発的に向かったという点では共通点がある。僕はどちらかというと、ダンスミュージックのすごいところはそのハチャメチャな量産性にあると思っていた。次から次へとCDやレコードがいつのまにかプレスされてフツーに店に置いてあり、どれがごみかお宝か解らなくなる破壊力。その中に迷い込み、なにがなんだかわからなくなる楽しさというか。


 どっかの無名な人間がチマチマ部屋でこねくり回した、しょぼいトラックが、大物のDJによって使われて・・・というようなサクセスストーリーがフツーに存在していた。かつては即興演奏もそういう感覚を共有していた時期があったはずなのだが・・・。日本にはひょっとしたら、最初から、なかったのかもしれない。


 あの感じが、最近みょ〜に懐かしい。でもオールナイトに行く時間がない。もしあったら、一番うれしいのは、ハウスとサルサとガバを一晩でいっしょにかけてくれるイベント。そんな妄想が今日浮かんだ。家で聞いてても面白くないし〜。


 これからは、ゴミと権威の二極化が、進むのかなあ。だとすれば、ゴミの方に喜んで歩みを進めることにしよう。


 ゴミなくして、宝なし。ゴミをよけて宝だけを先取りしようとするから、歯車が狂うのじゃなかろうか?と。
2006年12月23日(土)   No.525 (雑感)

与えよ されば 求められん 268 スライディングの巻
 僕のこの日記は一応なるべく、毎日書くようにしている。特に意味はない。いわば、リズムの練習。


 自分のためにやっている。はっきり言って、楽器の練習よりも、俺には重要(笑)。思考スピードの、調節だから。


 はやくしたり、ゆるめたり。


 言葉には意味と、リズムがあると思う。リズムが意味をつれてくることがあるが、調子に乗りすぎると、言葉が、自分の本性と乖離してしまう。


 今年はこのことについてほんと、よく悩んだ。


 他人のリズムにつられて踊ってしまう人が増えているせいかもしれない。


 いや、増えているのではなく、こちらからよく見える場所に移動してきただけなのかもしれない。リズムの移動。


 昔、稲垣潤一というドラマー兼ヴォーカリストがいらっしゃいましたが、彼のドラムセットは移動していた時期がありました。舞台の袖からこう、ずず〜っとスライドしてくるわけです。シティポップスを歌いながら。


 そういう話じゃないんですが、今日は、うまくごまかせそうです。
2006年12月21日(木)   No.524 (景)

与えよ されば 求められん 267 恫喝の「ド」
 もう、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、念の為リンクいたします。


■「オリコン」が個人を被告に5000万円の損害賠償訴訟


http://ugaya.com/column/061219oricon.html
http://xtc.bz/index.php?ID=396
http://onojima.txt-nifty.com/diary/2006/12/post_ff91.html 
 

 あらら、とうとうやっちゃったか、というのが、正直なところ。
 

 街でストリートパフォーマンスをやっている時に、あるホームレスのおっさんが話し掛けてきて、言った言葉がある。


 「ニンゲン、一度嘘をついてしまうと、死ぬまで嘘を重ねなくちゃいけなくなるんやで。トコトン取りかえしがつかなくなるんや。気をつけなあかん!」
 
 
 彼はギリギリの生活の中、悪意は全くなしに、自らの経験を踏まえた、人生の警句として、良かれと思い、我々に言ったのだった。酒臭い息で(笑)。


 いろいろお話を聞いていると、一筋縄では行かない、おそらく他人に迷惑をかけまくってきた超破滅型のおっさんやからこそ、その言葉には、なかなか説得力がありました。この言葉を、日本のメジャーの音楽業界の皆さん(販売業・問屋含む)に捧げようと思います。


 ・・・通信教育やけどな(by岡八郎)。


 いや、このお言葉、そのうち、音楽業界だけでなく、今のキュートな顔の首相にも捧げなくちゃいけなくなるかもね。改憲やる気まんまんらしいし。めっちゃ急いではる。こちら(有権者)の検証をスピードと諦念の流布で出し抜こうとしていらっしゃるわけである。言っておくけど、俺は「護憲派」でも「社会主義者」でも「市民運動家」でもない。けど、「どんな」人に「どのように」憲法が変えられてしまうのか、ということには、もっとみんな真剣に注目しなきゃダメ!・・・ですよ。同意するにせよ、しないにしてもね。


 手遅れになるのは奴らか、俺たちか?それとも両方、なのか。

 
 むっちゃ腹立つので、酒飲んで今日は寝ます。気になった人は、各自メールをフル活用してください。頼むよベイビー。ほな。
2006年12月20日(水)   No.523 (景)

与えよ されば 求められん 266 Amazing Graceの巻
 「ド」はクラシック音楽においてはある種コンサバな社会的地位を獲得している。五線譜の城砦の中で。いや、そんなことよりも、二日前にドカベン(実写版)を見ていて思い出したことがある。いや、思い出した、というより、悪夢が蘇った、というべきか。年をとると連鎖的類推思考に時差が生じるのである。ド、ド。


 それは、「ド」・・・ドレッド・ツェッペリンである。


http://www.dreadzeppelin.com/


 あまりにくだらないので、ずいぶん昔に売ッ払ってしまったこの人たちのCDだが、嫌いではない。なぜならば、こういう作業にはある種の真面目さ、狂気ではない職人気質、さりげないバランス感覚などが必要とされるのである。不真面目な僕が言うのだから間違いはありません。ギターが結構うまかったような記憶が・・・。全編ぬるい音しか入ってないのだが、河内家菊水丸と天下一品の社長のショートコントのように、哀しさとぬるさのクオリティがぬり壁のように均質で安定しているので(<しつこいとも言う)好きだった。全河内音頭ファン必聴の作品といえるであろう。


 驚いたことに、彼らはまだ活動しているらしい。アリゾナ・ダイヤモンドバックスVSドジャーズの試合のオープニングで国歌斉唱してます・・・やってくれるぜ。秋葉原で路上ギグをやれば面白いと思う。ロバート・プラントも喜ぶだろう。イギリスにはファンサイトもある。流石!

 この後、ドン小西に無理やり話を繋げようと思ったが、睡魔と倦怠感が襲ってきたのでやめることにする。おやすみなさい。沈黙の子羊たちよ。

 
 ちなみに、僕の一番大好きな音は「シ」、です。あんまし演奏しないけど。



今日のBGM:Garnet Silk "Love Is The Answer"
レゲーッス。切ない歌声が胸を打ちますぜ。奥さん。
2006年12月19日(火)   No.522 (景)

与えよ されば 求められん 265 都市と田舎の間で
 テレビでニュースを見ていると、安倍首相やブッシュやまあ、いろんな人が毎日のように「顔」を出している。録画されたものを繰り返し見せられているに過ぎないのだが、例えば、自分が田舎でひと仕事終えて、まわりにな〜んにもない、自宅で日本酒などを飲みながら、あぐらをかいてまったりしている老人ならば、どうだろう?と、想像してみることがある。


 まあ、色々問題もあるかもしれんけど、なんとなく都会でイッチョーラを着こなして、仕事を頑張っている子供のように見えるのではないだろうか。まーよーわがらんげどがんばれヨ、乾杯、と。彼らには、具体的な政策を検証する、とか、そういう思考がハナから存在していなかったりする事が多い。


 彼らにとって、テレビは、かわいいかわいい孫であり、神棚なのだ。


 高齢化社会なわけだから、この問題は政治に限らず、文化にも深く関連していく、と俺は考えている。


 よく考えてみよう。


 80年代までは、都市と田舎の格差、価値観の違い、若者と老人、高齢化問題をヴィヴィッドに描く作品がまだあったが、それ以降はなんとなくタブー視されている、と俺は思っている。お互いにイタイ部分を触れないようにしている、という強い強い風潮を感じる。哀しくなりたくないからである。楽な方に流れているわけである。自分自身が介護等で心底疲れているのに、認知症の老人のドキュメンタリーを見たくないのと同じである。でも、そこを突かなければ、前に進まないのではないか?と感じることが私は多い。


 都市において高齢化が進めば、結局田舎と同じ問題が僕らにも降りかかってくる。僕ら自身も年を取っていつか老人になる。


 もちろん、お年寄りは大切にしなければならない。でも時々、孫はお年寄りにはっきりものを言わなくちゃいけない時がある。この二つは俺は矛盾しないと信じている。でも他の日本人はどうだろうか?ひとを大切にすること=議論しないことだと思ってやしないかい?oi!


 そんなことを最近よく考えるのだ。大体ネットなんて字が細かすぎて年寄りは見てないんだよね。


 京都は半分都会で田舎みたいな町だから、この辺の事について考えるのに適しているよ。


 そういや一度、何とか詐欺の人から電話がかかってきた時、受話器から聞こえてきたのは、東北弁を必死に隠しながら話す若者の声だったっけ。
2006年12月18日(月)   No.521 (景)

与えよ されば 求められん 264 YOUこくのSEE
 オフィーリア久しぶりの練習。間があいたせいか、結構よれっている。ムムム。


 終演後、自分たちのちょい昔のネガポジのライブのビデオを見て各自検証する。自分で言うのもなんだが、なかなか、いい演奏である。


 そのあと、鈴木則文監督の「ドカベン(実写版)」とポランスキーの「テス」を続けて皆で見る。両方とも俺が思春期の頃、繰り返し見た至高の名作である。ドカベンに関しては俺は当時「これは戦後の日本の歩みをスポーツで隠喩したポリティカルな重要作」だと思い込んでいたのだが、そんなことはネットで検索しても誰も指摘していないので、きっと俺はリビドーに脳をやられて軽く発狂していたのだろう。この作品が映画館で公開された際、併映されていたのは「恐竜・怪鳥の伝説」という作品で、こちらも私は大名作だと思っている。


 いじめに悩んでいるティーンには今すぐ、「ドカベン」を台詞を暗記できるほどになるまで繰り返し見せるべきであり、教育基本法にこの項が盛り込まれなかったことは日本の未来に巨大な影を落とすことになるだろう。
2006年12月17日(日)   No.520 (景)

与えよ されば 求められん 263 ぶつ切り王・・・ボク、赤ちゃんの巻
 oh隈氏がとってくれたこの間の東京のライブ(全長版40ッ分)を聞く。じっくり聞く。いつものことですが。思ったよりもコラージュみたいになってないのは、ベースやサックスさんが母性愛をミニマルフレーズに込めて、まったり構えてくだすったおかげであろう。実に助かる。こうやって赤子はあやされるわけである。ゆりかごから墓場まで・・・いや、コラージュっぽいのも面白いんだけど、ベクトルが揃わないと、他の人の持ち味を殺しすぎてしまう。それは僕は嫌やってん。もちろんケースバイケースやけど。僕は気を抜くと、すぐそこに陥ってしまうから。超ぶつ切り王。でも、テクはないけど、一応、気持ち的にはアンサンブル派やから・・・その試みが成功しているかどうかは、複数の感想を総合的に聞かなくちゃなるまい。でも、コレだけは言える。なんつ〜か・・・変な人がひとりいる。それはオレ。困ったものです。でも、俺の本性が出ているともいえます。そこは認めねばならない。モーツァルト北浜。あとは、生活感(だらしなさの精神描写)に執着する作業をどういう風に発展させていくか、もっと考えてみようかと。

 
 ネタがないので、今読んでいる本(敬称略)。


 D・R・クーンツ「ウォッチャーズ(上)(下)」
 C・ロートレアモン「マルドロールの歌」
 紀田順一郎「日本の書物」
 マルセル・エイメ「壁抜け男」
 G・A・エフィンジャー「シューレーディンガーの子猫」(短編)
 キャサリン・マンスフィールド「マンスフィールド短編集」


 こんなところ。ほとんど読み終わったマルセル・エイメ「壁抜け男」はなかなか軽妙かつ最高だった。ねっとり重厚なものを求める人には不向きだが。


 特にこの短編集に収められた「変身」という短編が好きで好きでたまらないのだった。救われない人間を、優しく、そして厳しく描いた話であるが、毒気もたっぷり隠し味に入っている。主人公のキャラは全く違うが、ほんの少しフランク・キャプラの大名作「素晴らしき哉、人生!」を思わせるヒューマンな語り口と、皮肉とのバランスが見事で、なんか新鮮。単に、普段俺はこういうの読まないだけ、なんですが・・・やっぱ、好きかな。うん。なんかのパロディであるようなテイストもあるが、元ネタが思い出せませんでした。


 何かの本で、イノセンス、というのは失うものが何もない状態だとあったが、何かひとつにこだわるあまり、他のものが全く見えないというのも無垢なのかなあ、とか、色々考えさせられる一品。


 エフィンジャーの「シューレーティンガーの子猫」は量子力学を多元宇宙に絡めたSFで、例によってアラブの少女が出てきます。俺の足りない頭では、ちんぷんかんぷんでしたが、なんか文体が、ちょい気取ってて、かっくいい。大名作「スローターハウス5」の亜流ともいえなくもないが・・・こっちは短編で時計のねじをぶっ飛ばしてゆく。浜辺に突き出した数列と、路地にうち捨てられた哀愁を乱反射させながら。人によっては強引に思えるかもしれませんが、私はこういうの、ポエムとして読みますから、嫌いじゃないです。


 この二本は、運命や偶然を信じない人には、きっと気に入っていただけるカモ、と思えました。なんか、ウディ・アレンの「ハンナとその姉妹」を久しぶりに見たくなってきた。


 夕方に事務所でコーヒーを飲みすぎて、眠れないのでロンドンでやっているANODEのライブの生中継を馬鹿なりに真剣に聞いてみる。日本時間am6:33−


 http://www.resonancefm.com/
2006年12月16日(土)   No.519 (景)

与えよ されば 求められん 262 スイス節〜たわわちゃんの巻
 以前この日記でyelloという変テコな二人組のスイスのグループを紹介しましたが、そういえば、俺の好きなカルト貴族(?)映画「ラ・パロマ」を撮った監督ダニエル・シュミットもスイス出身だと、つい最近気がついた(おそい)。なんか共通するような真剣かつ壊れたセンスを感じる。そういえば、パウル・クレーもスイス人だ。お〜俺の中で、繋がるぞ、これは。あと、オネゲルとかかあ。出身地なんて調べたことなかったからなあ。あんまし興味なかったし。オネゲルなんて、てっきりフランス人だと思ってたワイ。


 これらの人々をつなぐイメージ、それはワンステージで観客がうんざりするほどの奇術を披露し過ぎて、かえって顰蹙を買ってしまう奇術師たちだということだ。ただし、その衣装はいつもパリパリにキマっているのである。昔、図書館でスイスの文学作品を読んだことがあるけど、それもそんな感じだったような気がするなあ。エレガントなんだけど、やりすぎ。また読み直さなければ。


 それはそうと、京都人の皆さん、コレをご存知でいらっしゃいますか。

 ↓
 京都タワーのマスコットキャラ・たわわちゃん


 こ、この表情・・・怖すぎまっせ。
 そのうち目が慣れてくるのかな?
 でも、京都タワーのあの形状からキノコに持っていかなかったのは正解かもしれません、けどね・・・。アリなんだけど、やっぱなんか、きっついもんがこもってる様な気がする俺なのでした。


 ギリギリかわE=ギリカワって感じですね。これが、サイン・オブ・ザ・タイムスなのでございますかねぇ?


 頬っぺたは、一度触ってみたいような気もした。
2006年12月15日(金)   No.518 (景)

与えよ されば 求められん 261 恐るべき子供たちの巻
 以前、仕事で大阪のほうの日本橋に嫌々行ったときにメイドカフェのチラシを渡されてショックを受けたことをこの日記で書きました。この間も、ライブのついでに東京で墓参りする際に秋葉原をJRで通過する際に迷ったのである。メイドカフェに立ち寄るべきか、田舎。いや、否か。結局オトナとしての分別が勝利し、行きませんでしたが。いや、京都にもあるんやけどね。最悪やねんよ、だってモデルガンショップの二階にあるんやから・・・。しかも、噂ではですね、注文すると、


敬礼


 されるそうです。メイドさんが。こ、怖すぎる。


 今度、書記長連れて行こうかな。


 ・・・つまり、今日は書くことがないのですね。そんな日もあるさ。ほな。


 
2006年12月14日(木)   No.517 (景)

与えよ されば 求められん 260 ぐだぐだの巻
 京都に帰ってきた途端ぐだぐだになってしまう。ぐだぐだに成るということは、安心しているということだ。ぐでんぐでんだと萩原健一であるが、私は、ぐだぐだ。お間違えなきよう。なんのこっちゃ。


 読まなくてはならない本が溜まっている。ま、ぼちぼち。


 仕事はしばらく肉体労働が続きそうな気配。冬に汗をかくのを嫌がる人が多いためだ。


 東京で少し話したが、高知県や淡路島など、行きたい場所でライブをするというのは、のどかな町並みとかをウォッチして目の保養にもなるし、精神衛生上いいことかもしれない。ソウルでライブしたりするのも、俺が行きたいからだし・・・などと、少し考えるが、淡路島にはライブハウス、あるのかな?・・・ないっぽい。残念。淡路島モンキーセンター。たこフェリー。


 高知県にはハコ、あるようなので、いつかやれたら面白いな。うん、そういうのを目標にして、しばらく生きることにしよう。ミュージシャンが出したい音を出して、行きたい場所に行き、食いたいものを食う、と。これが一番正しいような気がしてきた。知らず知らずのうちに、小さなコミューンや時流にのまれるから、かえって照準が鈍ってしまうのだ。皿の上に乗っている食い物や食堂のおやじの額に向かって演奏するのだ。普段私が払っている空しい代償を埋めるにはこれしかない。地方レジャー。地方レジャー。わっはっは。いや、馬鹿にしてるのではないよ。郷土を愛する人よ。自分が住む地元を相対化する上で、必然的な作業なのである。なんちて。ぐだぐだ。


 工場の窓からつちのこがこっちを見つめている。
2006年12月13日(水)   No.516 (景)

与えよ されば 求められん 259 エイフェックス・江戸関西・ツインの巻
 石原慎太郎(神戸生まれ)を宇宙一嫌いな私が今回東京行きを決意したのは、私の家の墓が日暮里にあるからだ。どうして東京にあるのかはよくわからない。我が家は無口な人が多いので、いくら質問しても、誰もまともに喋ってくれなかったのである。っていうか、諸事情で家に迷惑をかけた、という罪悪感を持っている人が多いから、なるべく家のことには触れたくない、ということなのだろう。少なくとも、祖父までは東京で仕事をしていたし、亡くなる最期まで標準語で話していた。

 
 私は京都生まれ京都育ちであるが、江戸っ子の血も流れている。大相撲の拍子木(柝)の音を聞くと今も胸が高鳴るし、お座敷文化も関西のより関東の方がクオリティが高いとさえ、思っていたりする。その一方で、関西の地獄からダイレクトに立ち上るような下品さも愛していたりして、ここらへんの分裂具合が俺のケッタイな人格形成に大きく作用していることは間違いないのである。


 機材を持って日暮里へ。駅前のビルを建設している以外は特に変わっていない。なぜならば、東京は店舗より、地形そのものが町の顔なのであり、日暮里は坂に結構特徴があるところなのだ。管理費などを払った後、墓地で働く、くわえタバコのおっちゃんに墓に案内してもらう。


 色川武大先生の墓の所在を尋ねると、


「俺、こんな仕事してっけど、お墓とかあんまし興味ねーんだわー」


 と、訛り丸出しの口調で言われて、微笑む。これを聞けただけでも、ここに来た甲斐があるというものだ。いやホント。

 
 我が家の墓の前でかしわ手を打つ。

 
 面白いのは、我が家の墓の隣には同じ苗字の別の墓があるのである。親戚なのか、なんなのか。噂では親戚らしいのだが、前述のように家から断絶した人物が多いので、はっきりしたことは教えてくれない。行く度に、謎は深まるばかりである。しかも、私が参るというのでそっちの墓にも榊が差し込んであるのである。それでも、我が家の墓はあくまでこっちなので、そっちには参らない。いつも参るべきなのかどうか、迷うのである。変なの。参れというのか。どっちや。と。きっと俺が死んでここに収納された後も、子孫は迷うと思う。ぬはは、面白い。they might be giantsのlincolnのジャケ状態である。シンメトリーじゃないけど。


 ひとりなのに、ツイン、と。


 音楽を演奏する人間には、そういう多面性に対する嗅覚が強くなるところがある。

 
 生きているうちに、隣の松山たちに会えたら面白いな!


 黒々と枝を伸ばす春を待つ古桜の木々が美しかった。
2006年12月12日(火)   No.515 (景)

与えよ されば 求められん 258 喧騒の詩人たちの巻
 単独で高速バスで東京へ。深夜移動するわけであり、車内は高速に乗ると即消灯される。乗客も他者の睡眠を妨げないよう皆黙りこくっているわけであり、これが静と動のメリハリを好む私には大変ありがたかった。新宿に着くと、例によって24時間続く喧騒の中、動き回らねばならない。


 歌舞伎町のネットカフェに直行し、グラビア写真集などをペラペラ立ち読みしたり、引きこもりピープルの人間観察をしたあと、今回のイベントを企画した田中樹里君とお会いするために電車で移動。降り立ったそこは下町であり、ちょっと変な店が多く、歩いていると心が和む。荷物を預けて、ほっとする。


 そのあと、歌舞伎町に戻って機材を搬入し、今回のイベントを行うお店「クラクラ」にてアヴァ労のメンツと落ち合う。重い機材を新幹線で運んできた久モ氏やM木氏には頭が下がる。店長とご一緒に机椅子を移動して、店をステージに改造する。店長の動きが迅速でなんか良かった。そのあと、皆で思い出横丁で、トマトタンメンや餃子などを食す。これがうまかった。っていうか、にんにくとニラを限界まで入れすぎの餃子に笑う。関西の餃子はどちらかというと生姜ベースなのでこういうのはあまりない。皮も強力粉ベースで固めなのが気に入った。


 中尾勘二さんのクラリネット独奏からスタート。これが素晴らしかった。リバーブを深くかけて空間を作った上で、つむじ風のような循環フレーズが妖しく変容しながら夜の町に漂う。複数の異なるメロディーが高速で近づいてきて、また一つにまとまったりとか、そういう光景が想起され、面白い。クラリネットというのは土着的な音でもあるが、メカニカルに響かせられる楽器なのかもしれない。


 二番手は我々。私個人は今日ここにやってくるまでのプロセスで感じた事を音にしようとする。ゴールデン街ということで、もっと渋くやりたかったが、どうしてもコミカルでちょい狂った部分が出てしまう。が、客はそこに喜んでいるので、ツカミとしてはまあいいか。結構前半はロック風だったが、後半は希望はあるが、アテもなくフラフラする感じにできた。それこそが、今日表現したかったことだったのだが、うまく伝わっただろうか?いずれにせよ、久しぶりの即興演奏を楽しんだ。っていうか、自分たちがどうしようもない関西人(ここでは異邦人)であるということが、一音一音出すたびにビンビンに感じられるのが、面白かった。


 三番目はゆりしーず。タメの効いたギターの上で田中君の危なっかしいヴォーカルが彷徨う。はじめのうちはおとなしかったリコーダーが、フリーキーなトーンを帯び始めて、落ち着きそうなバランスに危うい緊張感をもたらしていた。静かな音楽なのだが、そこに込めている感情は、妙に熱い。最後のほうは能楽のようになっていて、そこが面白かった。既にあるもの、に刃向かう意志が演奏に感じられた。静かだけど、和めない音楽、という感じで、ザラっとしている。


 終演後、皆でわいわい話す。どうしようもない馬鹿な話ばかりしていた気がする。高知県とか、炭鉱とか、煤けた話ばっかり。中尾さんやルイス稲毛さんとは、初めてお話しできた。冗談のスキマから言葉に成らない何かが伝わる。あの感じは今後も、覚えておこうと思う。こちらからあちらに伝えたことはよくわからないが、あっちからこっちに伝わったことはわかるのだ。


 俺はジャズミュージシャンというのは、基本的に定型に忠実であり、自分のパブリックイメージに刃向かう思考は存在しないと思っていた。そういうのはロック寄りの人間だけが持っていると思っていたのだ。例えば、演奏家として何かのコンセプトを持つユニットに参加した場合、そこでは職人としてヘルプする。そしてその作品が多くの人に認知された場合、そこでやれなかったことを別の場所で提示して、素の自分のキャラクターに戻ってみる、という話を中尾氏が話していらっしゃるのを聞いて、なんだ、ジャンルによって演奏家の考えることが違う、というのは、先入観だったのだな、と思ったのものである。


 次の日、アヴァ労一同は田中君に連れられて、高円寺に向かい、スタジオに入って、バカスカ演奏し、インド料理屋でカレーを食って帰りました。


 今回の旅で一番印象的だったのは、新宿歌舞伎町で虚空に向かってわめいているアル中のおっさんが、関西弁だったことだ。ああいうおっさんがいるから、関西のイメージが悪くなるんだろうな〜。キャッチをするホストもなぜか関西弁を話してる奴がいた。つまりこれは、物珍しさゆえこっちの方が受ける、と上の誰かさんが狙って川に放流している寒さなのである。


 いずれにせよ、普段の生活が歌を生むのだな。と。そんなことを考えさせられた。そしてそのことを田中君に話したら彼女もそう思って行動しているらしく、なるほど、と、納得したのである。
2006年12月11日(月)   No.514 (景)

与えよ されば 求められん 257 34歳東京へ行くの巻
 知人に言われて思う。俺はそう、34歳なのだ。なぜか普段は完全に忘れている。アホだからかな?きっと、そうだ!


 朝に鏡を見ると、時々、目の端っこのところに、笑いじわが時々現れては、何とか踏ん張って、じりじり消えてゆく。ハラハラものである。


 ドモホルンリンクルである。


 DHCである。


 使ってませんけど。


 mixiでご存知の方もおられるでしょうが、突然ですが、東京でライブします。


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「キノコの森 vol,1」

12/9(土)

出演者

■アヴァ労即席バンド(O-kuma+松山展之+久モ+いさる三木)

■中尾勘二ソロ

■ゆりしーず(タナカジュリ、ルイス稲毛、ゲストで荻野和夫)

open/start 17:00/17:30 チャージ 1500yen(1drink付)

新宿ゴールデン街「クラクラパート2」
http://homepage2.nifty.com/tubakigumi/tubaki-nennpyo.html

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 東京に行くのは何年ぶりだろう。


 っていうか、ついでに我が家の墓参りを頼まれているのであるが、


 その墓地について調べてみると・・・
 

 錚々たるメンツが埋葬されている。


 色川武大さんとか、宮城道雄さん、獅子文六さん、とかね。


 作家の加藤文さんが、エッセーで書いている。



 ”獅子文六が好きというのは、ポップミュージックのグループ「アバ」が好きと公言するのに似ている。”


 いやあ、全くその通り。


 あと、


 その墓地、川上音二郎さんまでいる。


 文明開化ッスよ。

 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E9%9F%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E


 突貫工事のような生き様である。めちゃくちゃや。


 帝都の土(つち)も、深いねぇ。



今日のBGM:Nick Cave & The Bad Seeds "Straight To You"
2006年12月08日(金)   No.513 (景)

与えよ されば 求められん パート 256 ずっとあるものの巻
 「マース・ホテルから生中継で」アレン・M・スティール(短編)。アメリカン・バンドものSFとでも言おうか。はっきり言って、よくあるベタな人情話なんだけど、私はバンドものに弱いので、好ましい印象をもってしまう。なぜならば、忙しく働く人のすぐそばに音楽が「ずっと」あるということが当たり前の世界を描いているから。つまり、バンドというのは、ずっとある精神を具現化する仲介者だということだね。タイトルの元ネタはグレートフル・デッド。確かに、ゆる〜く、そしてほんのり哀しいお話だったりします。


 枕草子などにもチャレンジするが、さっぱりわからん。う〜む。国文学はムズいなぁ。


 セシボン小野くんと話していたLouis Sclavis(Cl)をよく聞いている。僕が持っているのはECMの第一作"rouge"で、この頃はドラムが暴れていないので、なんか超アブストラクトで死にきっていて面白い。ちょっと、政治臭のしないヘンリー・カウとか、プーランクを中近東の荒野に置き去りにしたような、そういう音。


 小野君のうちで聞かせていただいた”Les Violences de Rameau"は打って変わって、も〜なんか暑苦しい作風で大笑いさせてもらった。音は典型的な神経質系のレコメンなんだけど、とにかくそのバックで全力で一歩も引かないドラム(白タンクトップ)がイカ臭かった。こういうレコメンなら、たまに聞いてもいいな、と思った。笑えるから。


 あとは、ジム・フィータスと海援隊を毎日聞いています。武田鉄矢の鬱陶しいヴォーカル、好きなんです。じゃ。
2006年12月07日(木)   No.512 (景)

与えよ されば 求められん パート 255 ジンジャーティーに限るの巻
 しょうがを紅茶に入れて飲むのが好きで、よく飲んでいます。ポイントは、生姜は水洗いこそきちんとするものの、皮をむきすぎずに、すりおろして入れる。皮を包丁で深くむきすぎると、香りと辛みが大幅に減る。


 これが、最高に、うまい。甘味が欲しい時は、はちみつか、黒砂糖をぶち込む。さらに牛乳を入れてもうまいし、アップルティーでやっても美味。結局俺は餃子といい、ウィルキンソンといい、生姜が心底好きな体質らしい。辛いものが苦手な人には、オススメしません。


 生姜がすぐに減るので、将来プランターで育てようとか思っている今日この頃。


 京都の冬は寒い。


 学習塾の前で半ズボンで立っている少年がいた。


 やるな、おぬし。と、思いました。


 昔はぎょーさんおったけどね〜。真冬に半ズボン少年。


 イマドキ、珍しい。
2006年12月06日(水)   No.511 (雑感)

与えよ されば 求められん パート 254 どうにかしたい私の巻
 エルドン、来てたんやね。スタジオに貼ってあったチラシ見て、知ってましたけど、もうエルドンっていう名前がチラシに載ってるだけで、なんか満腹。


 いや、ちょっと待てよ。アヴァ労という名前も考えようによってはかなり胡散臭い名前だし、冗談の通じない人間がどんどん試験管べびいのように増殖している昨今、


「アヴァ労?労働組合?・・・何ソレ」


 的な反応を呼び起こしている可能性も否定できない。とはいえ、一度標榜した名義をコロコロ変えるのは、ただでさえ低い知名度をさらに地獄の底にまで叩き込みかねないわけで、第一、私は頑固なのだ。他の方法を考えなければならぬ。


 全然関係ないが、タウン情報誌の話に飛ぶ。


 知人によると、世界中広しといえども、広告を束ねているだけのモノを有料でエラソーに店に売り物として並べているのは、日本ぐらいなものだそうである。この深刻な病は雑誌だけにとどまらず、TV、ラジオ、いたるところで蔓延している。


 有名な話では、某音楽雑誌に発売前の作品に批評家が辛口の点数をつけたところ、レコード会社の重役が自ら乗り込んできてクレームをつけたということである。


 全てが広告の上に過剰に乗っかっているから、まともな批評が育たないんだなあ、と、思う。今はインターネットがあるから、様々な個人の批評が読めるようになりましたが、それでも、音楽雑誌のほとんどは「広告」原理主義である。誰かが硬派な雑誌を創刊すれば、解決しそうなもんだが、そういうのに限って廃刊に追い込まれているところを見ると、なんのかんの言って、フツーの人は広告が大好きなのではないか。ソレにしては、ネットの批評は俺でさえも唸る秀逸なのがたくさんあり(<何様や)、ミーハー地獄か鋭いマニア天国なのか、どっちやねん、と俺は思ってしまうのだ。


 きっと、両極、なのかもしれないニャ。世間を観察してると。


 ちなみに私、昔組んでいた即興演奏のバンドkuizのテープを某雑誌で批評されたことがある(1998年)。俺も脳みそがパンパンに沸いてた頃の作品だし変なノリだったので、あまり誉めてはいただけなかったが、なかなか的を得た指摘をされたので、嬉しかったです。


 確か、


「個々の曲は惹かれる部分多々あるが、全体を通して聞くと音楽性が散漫」


 だとか書かれたっけ。


 今も私は散漫なのである。困ったことに。逆に言うと、その散漫さをどうにかしようとして、今があるんだと思う。どうにかしたい〜(笑)。
2006年12月04日(月)   No.510 (雑感)

与えよ されば 求められん パート 253 天国か地獄の巻
 近年のピーター・ガブリエルやデイヴィッド・シルヴィアンの作品を聞いていると、この人たち、きっと、ガザル大好きなんだろうな〜、って思う。


 もちろんこれは勝手な推測に過ぎないのだが、少なくとも、僕には共通したテイストが感じられる。声の重ね方とか、響かせ方とかね。


 ガザルは北インド音楽の1ジャンルでもあり、パキスタンやマレーシアにもまたがるポピュラー歌謡の一様式だ。僕は宗教そのものにはまったく関心がない、極東の不届き者だが、このジャンルは聞いた瞬間に人をある種の安らぎに導いてしまうという点で、とても優れたラヴソングである、という個人定義をしている。こういうことを書くと、信仰心の厚い人から怒られるかもしれないが、体の芯を暖めるような濃いエロティシズムが声やサウンドデザインに深く波打っているのである。だから、冬にはよく聞く。おっさんの腹の上で眠る子猫のような気分になれるからだ。

 
 僕がインド音楽を苦手に思う部分は、やたらと技巧を詰め込んで、見せびらかすようなところがモノによってはたくさんあるからなのだが、そういう要素はガザルには、ほとんどないのが良い。テンポもゆっくりだし、どれも歌詞をじっくりと聞かせる様式になっているのは、言葉そのものの意味がわからなくても雰囲気で伝わってくる。ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンのカッワーリーのゆっくりな曲とよく似ている部分もあるのだが、あれより、もうちょっとバッキングがモダンで、ち〜さな音でエレキベースや打ち込みが重ねてあったりするのが変で良い。ヴォーカルもほとんど呟きのような、まったり系であり、感情を表に出さないスタイルのものが多い。


 これはきっとこの人たちにとってのAORなのではないか?と思いながら聞くと、実に楽しい発見がある。


 俺の好きな歌手はジャグジート・スィンフ JAGJIT SINGH(しゃしん)です。滅茶苦茶有名な人ですが、いいっすよ。なんつうか、枯れている。聞いてると、わけもなく泣けてくる諦念のようなものが声に含まれているようでもあり、希望を込めているようにも聞こえる、ナントモ深いうたごえなのだった。購入には渋谷のエル・スール・レコードhttp://www.elsurrecords.com/などがおすすめ。
2006年12月01日(金)   No.509 (雑感)

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2006年12月31日(日)
与えよ されば 求められん 275 行間を読んでいたの巻
2006年12月30日(土)
与えよ されば 求められん 274 凍傷の彼方への巻
2006年12月29日(金)
与えよ されば 求められん 273 Don't Think Twice , It's All Right
2006年12月27日(水)
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2006年12月26日(火)
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2006年12月25日(月)
与えよ されば 求められん 270 ドグラっ子、マグラッ子の巻
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2006年12月20日(水)
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2006年12月19日(火)
与えよ されば 求められん 266 Amazing Graceの巻
2006年12月18日(月)
与えよ されば 求められん 265 都市と田舎の間で
2006年12月17日(日)
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2006年12月13日(水)
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2006年12月07日(木)
与えよ されば 求められん パート 256 ずっとあるものの巻
2006年12月06日(水)
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2006年12月01日(金)
与えよ されば 求められん パート 253 天国か地獄の巻



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